エーデルワイス比屋根毅会長が語る満足できる店作りの大切さ、カンブリア宮殿「スイーツ一筋60年!“洋菓子界の巨匠”波乱万丈の人生」視聴レビュー

2014年1月23日(木)放送のカンブリア宮殿「スイーツ一筋60年!“洋菓子界の巨匠”波乱万丈の人生」には、洋菓子一筋60年で「業界の父」とも呼ばれるのが株式会社エーデルワイスの比屋根毅(ひやね・つよし)会長が登場され、自分が満足できる店作りについて語られていました。

阪急梅田本店のデパ地下で人気の高い洋菓子店、それがケーキや焼き菓子など欧州伝統の味を提供する「アンテノール」です。アンテノールは業界で初めて、客の目の前で作る店内厨房を導入した洋菓子店でもあります。

アンテノールをはじめ、ベルギー王室御用達の高級チョコレート店「ヴィタメール」や、フランスで100年の歴史を持つパンの老舗「ルビアン」など8つのブランドを国内で展開しているのが、比屋根会長が1966年に創業した株式会社エーデルワイスです。

機会による効率ではなく、菓子職人の手作りによるおいしさを追求するのがエーデルワイス流です。1937年に沖縄で生まれた比屋根氏は終戦後、10歳の時に読んだリーダーズ・ダイジェストをきっかけに15歳で故郷の石垣島を単身飛び出し菓子職人として技を磨きます。

菓子メーカーにも就職し、近畿地方の菓子コンテストを次々と制覇。1965年には全国大会に出場し、大阪城の天守閣をすべて菓子で作り上げ見事大賞を受賞します。

1966年に比屋根氏は独立、アルプスに咲く可憐な花の名前を取って「エーデルワイス」(花言葉は忍耐)と名付けた洋菓子店を開店します。しかし開店までの道のりも順風満帆ではなく、資金の無かった比屋根氏はお店の機材をほとんど中古で揃えられていたそうです。

エーデルワイス開店後も苦難は続きます。売り上げがまったく立たず、ついに比屋根氏は閉店を決意。最後の賭けとして、ありったけの材料を全部使ってケーキを作ります。

そして出来上がったケーキを近所の人たちに無料で配ります。これがきっかけでお店に客が来るようになり、業績も上昇。1970年代に藤やなど洋菓子大手がフランチャイズ方式で店舗を増やす中、エーデルワイスもフランチャイズで規模を拡大します。

一方で高級路線の新ブランド「アンテノール」を立ち上げます。ケーキ1個の値段はエーデルワイスの2倍近い価格設定にも関わらず、美味しさが人気を呼びアンテノール1店の売り上げがエーデルワイス20店分にもなったそうです。

1983年、アンテノールは念願の東京進出を果たしますが、翌年無理な投資がたたり1億4,000万円もの赤字に転落してしまいます。90年代になるといつでも手軽にスイーツが手に入るコンビニも台頭。フランチャイズ店の質も低下していきます。

そこで比屋根会長は前代未聞の決断を下します。それが、主力ブランドでもあり、会社の売り上げの半分を占める「エーデルワイス」の全店閉鎖です。

エーデルワイス全店閉鎖に社員はこぞって猛反対しますが、比屋根会長は断行。フランチャイズオーナーにも補償し、2003年に全エーデルワイスの閉鎖を達成します。この決断が当たり、その後エーデルワイス社の売り上げは伸びていきます。

兵庫県尼崎市のエーデルワイス本社工場の中には、「エーデルワイス・ミュージアム」というヨーロッパの菓子作りの道具が3,000点以上も展示されているエリアがあります。道具に宿る職人魂を若い職人にも感じて欲しいという比屋根会長の思いが宿ったミュージアムです。

比屋根氏は人材育成にも非常に注力しており、エーデルワイスで修業し独立した弟子たちは50人を超え、その多くが各地で人気店を営んでいます。また競合他社の人材であっても兵庫県洋菓子協会から提携先に派遣する海外研修制度も採用し、洋菓子業界の底上げに取り組んでいます。

日本を代表する菓子職人となり、大人気菓子メーカーを作り上げ、後進の育成にも励むエーデルワイス比屋根氏。いくつになっても菓子職人として学び続ける比屋根氏の行動力と信念には頭が下がると同時に、自身のモチベーションアップにもつながります。

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です